八方塞がり日記 (50代OL 鬱治療中 それでも起業したい)

50代女性。大卒から今まで企業内デザイナーとして正社員で働き続けてきて、仕事がアイデンティティとなってしまいました。思えばずっと抑鬱状態でしたが、この度晴れて鬱病と診断されました。幼少期から結婚して家を出るまで母との関係で疲弊し、インナーチャイルドを抱えながら生きています。

父が亡くなりました

今朝、父が危ない状態なのですぐ病院に来るようにと妹からLINEが届きました。

大急ぎで支度して出かけ、12:30くらいに病院に到着しました。

父は顎を上げ口を開けて呼吸していました。

酸素の値が70くらいだったのが、どんどん下がってきました。60台、50台、40台…30台になった時、ちょっと様子が変わり、呼吸が止まりました。父に何度も声かけしました。

その後しばらくの間心臓は動いているようでしたが、看護師さんが言うには、今心臓は震えているだけで血液を送り出してはいない、とのことでした。

完全に心臓が鼓動をやめた時13:47でした。そのあとしばらく待っていると、医師がうやうやしくやってきました。神妙な面持ちで父に聴診器を当て目に光を当てました。そしてゆっくりと「13:57死亡を宣告させていただきます」と重々しく言いました。

その儀式については特になんの意味もないのだそうで、昔からの慣わし以上の何物でもない、と以前医師が書いた本に書いてあったのを思い出し、「この人も今それっぽく演じているんだな」となんとなく可笑しさを感じてながら見ていました。

 

その後はわたしが葬儀を手配することになっていたので、葬儀社に連絡し、葬儀の日程など全て打ち合わせを済ませ、終わった時は18:00でした。

 

猛暑なので、遺体を自宅に連れて帰ることをお勧めしない、と葬儀社の人に言われた瞬間から、母が、葬儀社で父を預かってもらう、と言うことに固執して、家に連れて帰りたい妹と意見が完全に分かれてしまいました。母がテコでも意見を変えないので、とうとう妹は涙しながらあきらめ、父は今葬儀社の安置所にいます。

帰り際、父の顔を見に行きましたが、妹は「家に連れて帰ってあげられなくてごめんね」と痛々しいほどに涙をながして父に謝っていました。

私もせめて1泊でも自宅で、と母を説得しましたが、ものすごい意志の強さで跳ね返され、それと同時に、ストレッチャーがマンションのエレベーターに乗らないから無理かもしれないなどと考え、結局は母の意向どおりになりました。

 

慌ただしく、驚くほど1日が早く過ぎて行きました。不思議な感覚です。

 

父の人生は私の知る限りかなりしょっぱかったと思います。全く気の合わない母と結婚して喧嘩ばかりして、挙げ句の果てに、雪だるま式に膨らんだ大借金のすえ自己破産をし、家を売って一家離散。

残ったお金と父が再就職した会社の退職金を頭金にして今のマンションを買った母は、父の年金をあてにして、父は一人暮らしよりは金蔓でもいいからと割り切り、また2人は一緒に暮らしました。そこには家族のつながりとか愛情は全くみえませんでした。

唯一の救いは何故か妹が心から献身的に父の介護をしていたことです。

あの妹の介護で最期に父の人生は光輝いたと思います。

それに引き換えわたしはそれらを遠巻きに見ていただけの親不孝な娘でした。

 

父が今肉体から解放され、清々しくいることを願っています。苦悩だらけの人生もやっとのことで終わりました。

これからはあの世で気軽に楽しくやってほしいと思います。

 

子供の頃、プールによく連れて行ってくれました。泳ぎを教えてくれました。海にも行きました。公園にも連れて行ってくれました。

父は子煩悩でした。

大学時代は時々煩い母から逃れたくて父の単身赴任先に泊まりに行きました。そんな時はいっしょに飲みに行ったりしました。

わたしが子供を産んだあとは週に1度子守りに来てくれました。

 

小学生の頃、夏の週末の夜、涼しくなってから、1時間くらい家族4人で外を散歩して、帰りにアイスを買って帰るという家族の習慣がありました。わたしにとって数少ない家族全員で楽しく過ごした思い出です。

 

お父さん、あの世で会ったら、これらの思い出話をつまみにしてまた飲もう。