八方塞がり日記 (50代OL 鬱治療中 それでも起業したい)

50代女性。大卒から今まで企業内デザイナーとして正社員で働き続けてきて、仕事がアイデンティティとなってしまいました。思えばずっと抑鬱状態でしたが、この度晴れて鬱病と診断されました。幼少期から結婚して家を出るまで母との関係で疲弊し、インナーチャイルドを抱えながら生きています。

幼少期

今思えば私は幼稚園の頃から1人で出歩いていました。1人で遊びに行ったり習い事に行ったりしていました。幼稚園の友達のうちにお呼ばれした時、母が作ったプリンを両手に持ち、雨が降りそうな暗い曇り空の下、友達の家に向かう道を不安な気持ちで1人歩いた記憶があります。

 

家の時計が止まっていたのに気付かず、その時習っていたバレエのレッスンに出かけ、いつまで待っても誰も来ない中、建物の外でひたすら1人で待ち続けました。あまりの寒さと心細さで半べそをかきながら自宅に戻ったら、家にいた母から「ごめんごめん,時計止まってたわ」と言われました。あの時母はさすがに「ごめんごめん」と謝ってハグしてくれました。大泣きながらくすぐったい気持ちになったことを覚えています。そんなことは初めてだったからです。

 

3歳年下の妹が産まれて、母は妹の世話で忙しかったんでしょう。それに、昭和の子育てはみんなそんな感じだったのかもしれません。

母に遊んでもらった記憶はゼロです。

本を読んでもらった記憶もありません。

自分で読んで、と絵本を渡されました。

 

幼稚園のお迎えでは、母はいつも遅れ気味でした。私は大抵残り数人とか最後の1人になるまで待っていました。毎日(今日こそこのまま迎えに来ないんだ、捨てられたんだ)と思って不安な気持ちで待っていました。本当に捨てられる、と恐れていました。

 

3歳年下の妹は、それはそれは可愛く、街行く人が「まあ〜かわいい」と乳母車を覗き込みました。私から見ても(この子はなんて可愛いんだろう)と自慢でした。母は妹を褒められていつも嬉しそうでした。

それに引きひきかえ、わたしは今で言うADHD気味で、落ち着きなくいつもどこかに行ってしまい、夕方ドロドロになってズボンのひざを破いて帰ってくる、あまりかわいくない子供だったんだと思います。

長男長女の宿命みたいなものもあるとは思います。

幼少期の私は、母に愛された感覚を持つことなくほぼ放置されて育ちました。