八方塞がり日記 (50代OL 鬱治療中 それでも起業したい)

50代女性。大卒から今まで企業内デザイナーとして正社員で働き続けてきて、仕事がアイデンティティとなってしまいました。思えばずっと抑鬱状態でしたが、この度晴れて鬱病と診断されました。幼少期から結婚して家を出るまで母との関係で疲弊し、インナーチャイルドを抱えながら生きています。

不妊治療のこと

38歳から本格的な不妊治療(体外受精)を始めて4年後に授かった命、それが私たちの息子です。

 

始めて不妊治療の病院の門を潜った時、私たち夫婦は希望に満ちていました。病院に行けばすぐに妊娠できる、と思っていました。

 

最初の病院で、院長に「時すでに遅しと言う感じやなぁ」と言われました。後でわかったことですが、私は卵子があまり多くないことが血液検査の数値に現れていたのです。そこで1年ほど体外受精にチャレンジしました。しかし、1年通って一度も受精させられる基準の胚盤胞が育ちませんでした。

 

そこで、日本で1番有名な西新宿の病院に転院しました。程なくして胚盤胞ができ、体外受精して着床しました。しかし、心拍を確認することができず、流産となりました。その時すでに40才を過ぎていました。掻爬手術もしました。辛い記憶です。

 

採卵してもダメ、体外受精してもダメ、なのに、1回に数万〜50万ほどのお金が請求され、精神的ダメージに経済的ダメージが追い討ちをかけました。

 

さらにその後2回早期流産をしました。

かすりもしない時期も含めて4年も経ちました。お金だけがどんどん消えて行きました。

転院して最初に妊娠した時、わたしの中にこれまで姿形もなかった母性がひょこっと顔を出して、そのまま居座ってしまいました。もしあの時妊娠していなければある程度で諦めていたかもしれません。

 

4回目の妊娠のとき、そろそろ心拍を確認したい週数でまたも心拍を確認できませんでした。

またダメか、と青ざめながら不育症の病院の予約をしました。(これでダメなら不育症の治療だ)と思いました。その時42歳です。4年間にかかった費用や時間や思いを考えると怖くてたまりませんでした。埋没原価に囚われているというよりは,ただただどうしても子供が欲しいという思いに囚われていました。そして一方で、今後これをいつどうやって終わらせればいいのか、終わらせたらどうなってしまうのか、考えることが恐ろしく立ちすくんでいるような状態でした。

 

病院に行く前日、(今回も心拍は確認できないかもしれない…胎児の心拍を見たかった)と思い、ふとネットで検索してみました。チカチカチカチカと白く弱くまたたく映像を見て、(へぇこんな感じなんだ)と思いました。

 

次の日、夫婦で緊張しながら病院に行きました。ほとんど絶望と諦め、そして万が一の期待を込めてエコーをみると、昨日youtubeで見たチカチカがかすかに見えました。

「あ〜心拍あるね」と医師は淡々とわたしに言いました。呆然としたまま待合に戻り、夫に「心拍見えた」と伝えました。

 

その時チカチカと心臓の鼓動を光らせていた胎児は、9才になりました。あの日を境に、日々は彩りをともなって目まぐるしくあっという間に過ぎていきます。

 

しかしあの日々は一生忘れようのない記憶として残りました。なぜあの時あれほど執着できたのか、今思うと不思議です。